東京2020パラリンピック競技大会で教育学部の曽根裕二准教授(アダプテッド?スポーツ)がボッチャ日本代表(BC4クラス)のコーチを務めました。ボッチャは全クラスを通じて金メダル1、銀メダル1、銅メダル1を獲得。東京大会の結果や日本のパラスポーツの発展に向けた課題などについて、曽根准教授に聞きました。
――ボッチャチームの戦いぶりを振り返ってください。
BC2の個人で杉村英孝選手が金メダル、BC3のペアで銀メダル、団体で銅メダルを獲得し、BC4ではペア戦で8位でした。出場した全選手が入賞を果たし、いい結果を残せたと思います。
私が主に担当したBC4は世界ランキング19位での出場(開催国枠)で、厳しい戦いを強いられましたが、8位に入賞することができました。
――好成績を収めた要因は。
全試合において無得点で終えたゲームがなく、勝負にいく場面ではしっかり攻めの姿勢を貫けたかなと思います。また、私の主観ですが、選手?スタッフのチームワークが良かった。大会開催がコロナで1年延期され、全体合宿ができない中、オンラインでのミーティングやトレーニングに力を入れました。コミュニケーションが深まり、戦術や想い、悩みの共有ができたと思います。コロナ禍でボールを持つ時間、チームで練習する時間が短くなった分、一人ひとりが置かれた状況下で何ができるか工夫した結果だと思います。
――東京大会はパラスポーツ発展のきっかけになりますか。
弾みになってほしい。ボッチャの試合が1試合すべてテレビの地上波で中継されたのは初めてではないでしょうか。重度の障害のある選手が堂々とプレーする姿がテレビで広く伝わったことが、いい影響を及ぼしてほしいと思います。
また、パラスポーツでは障害と競技を結び付けずに報道するべきという議論があるかと思います。私は「障害」の部分を踏まえることは重要だと考えます。ボッチャの選手は、握力が5kgに満たない選手、一人で寝返り等を行うことが難しい選手など医学的には障害の重い選手ばかりです。そのような身体状況の選手たちが、あれだけ正確にボールを投げることができる。障害を知るからこそ、選手に対するリスペクトも大きくなるのではないかと考えますし、プレーの見方も深まるのではないかと思います。
――部長を務めるアダプテッド?スポーツ部の内田峻介選手がパラリンピック開会式で聖火の点火者を 務めました。
開会式の会場でも選手村でも選手には知らされておらず、すごく盛り上がりました。また、BC4クラスでは内田くんが開会式に関わってくれたことで、BC4強化指定選手全員が東京パラリンピックに参加できたと全体の士気が大いに高まりました。
内田君は19歳とまだ若いですが、2024年パリ大会を目指して、彼の持ち味であるパワーと投球精度、どちらも高めていってほしいと思います。
――日本でパラスポーツを今以上に発展させるために必要なことは。
一つは教育でしょうか。私たち大人の世代は、障害者を「かわいそう」「守るべき存在」と考えがちですが、テレビでパラリンピックを見た子どもたちの印象は「かっこいい」「あこがれる存在」ではないでしょうか。いわゆるリバースエデュケーションに当たると思いますが、子どもたちから社会全体へ、そのような意識が伝わっていけば良いと思います。
また、パラスポーツの競技性が極度に重視されると、パラアスリートとスポーツを行っていない障害のある方々との間に断絶が生まれるという指摘もあります。今回の東京大会のボッチャ競技において、最も障害が重いBC3で優勝したチェコの選手は試合中も酸素呼吸器をつけながらプレーしました。パラリンピックが障害の重い人でも工夫すればスポーツができるということの「気づき」につながってくれたらと思います。
――最後に、東京大会の会場で感じたことや、心温まるエピソードは。
ボランティアの優しさはすごかった。早朝の6時半に会場入りすると笑顔で出迎えてもらい、会場を出る時もバスが見えなくなるまで手を振ってくれました。定員オーバーでバスに選手が乗り切れない時はすぐに福祉車両を手配するなど真摯に対応してもらいました。会場の待機スペースではボランティアの方が折り紙を持ち込んで外国の選手に折り鶴や手まりやいろんな折り方を教えていました。試合直前に選手が待機するコールルーム(招集所)には、様々な国の言葉で「頑張って」と書かれた付せんがあちこちに貼られていました。このような心遣いは忘れることができません。選手団や審判団はもちろんですが、組織委員会の方々や、ボランティアの方々、テレビやパソコン、スマホの前で応援してくださった全ての方々が力を合わせることができた大会だと強く感じました。
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